中国も宮古島も出てこない
「空母いぶき」を映画化するとマンガの帯に書いてあったのを見て、「これを映画化できるのか? どういう風に映画化するんだ?」と楽しみでもあり、不安でもあった。 なにせ、かわぐちかいじの原作では、尖閣と多良間と与那国が電光石火で中国に占領され、… 続きを読む
「空母いぶき」を映画化するとマンガの帯に書いてあったのを見て、「これを映画化できるのか? どういう風に映画化するんだ?」と楽しみでもあり、不安でもあった。 なにせ、かわぐちかいじの原作では、尖閣と多良間と与那国が電光石火で中国に占領され、私が毎夏通っている宮古島が、レーダー基地をミサイルで攻撃され、宮古空港と下地島空港が爆撃され滑走路を破壊され、本土との空路を絶たれるという、絶体絶命の状態で空母いぶきの戦いが始まるからだ。 映画化の一報が入ってから、島の友人に「空母いぶきの撮影進んでるみたいだけど、宮古島でロケやってる?」って聞いても、全くその様子はない。どうなっているのかと思っていたら… 与那国、宮古は全く出てこない。占領されるのは波留間群島の初島という架空の島となり、さらに言えば仮想敵国も中国から東亜連邦(?)なる全く架空の国に変わっている。 諸般の事情とか言うのだろうか? もちろん中国を名指ししたまま映画化したら中国が過剰に反応して反日を刺激しかねないのはわかる。 また原作で攻撃を受けた宮古島でも、現在自衛隊基地の建設が進み、賛成派と反対派に分かれて対立が生まれているのが現状だ。「基地があるから攻撃される」のか「基地があるから抑止力になるのか」などの議論をさらに刺激することを避けるためなのか? 映画版では、いぶきをはじめとする第五護衛艦隊の戦闘だけにフォーカスする形での映画化となった。 防衛出動を決定するまでに右往左往する総理と政府の姿は「シン・ゴジラ」のそれに重なる。だが相手はゴジラじゃなくて生身の人間であり同等の軍隊。ミサイルを当てればもちろん死ぬ。 他国の人が見たらどう思うのだろう? 専守防衛を御旗に掲げた自衛隊は、明らかに攻撃を受けても敵の被害まで最少限度に収めるよう政府に要求されながら戦う。両手両足を縛られたままのような息苦しい、カタルシスのない戦いが続く。 かわぐちかいじの作品には必ず、何を考えているのか真意を測りかねる一見右寄りに見える鉄の意志を持ったリーダーと、そのリーダーのよき相棒でありながら反戦思考のライバルが必ず登場する。本作の秋津(西島秀俊)と新波(佐々木蔵之介)だ。 新波が言う「自衛隊は発足以来1人の戦死者も出していない。」 秋津が返す「誇るべきは自衛隊員に戦死者がいないことではなく、ひとりの一般人も戦争で死者を出していないことだ。」 新波が言う「我々は戦争をする能力は持っているが、絶対戦争はしない。」 秋津が返す「戦わねば守れない平和もある。」 答えの出ないこの問答が本作のテーマだろう。 ただ、設定を変えただけでなく、占領された初島なる島の様子・島民の姿は全く描かれない。原作にはあった先島諸島での有事のリアルな可能性をぼかしただけでなく、侵略された島の被害を全く描かないのは明らかに逃げすぎじゃないだろうか? それだけではない。仮想敵国が中国だからこそ、先島諸島の戦闘だけならアメリカが日米安保を発動しない可能性に基づいていた原作の微妙な読みも吹っ飛ばしてしまった。 本作は「空母いぶき」の戦闘だけしか描いていない。この映画を見て関心を持たれた方はぜひ原作のマンガを読んでいただきたい。 自衛隊の全面協力で、実際の戦力によるリアルな戦闘は迫力満点! ミリタリーファンは大興奮であろうが、見る者によって右寄りにも左寄りにも取れる作品でもある。 舞台挨拶で、若松監督は「未来の命に平和な世界を残す」と、藤竜也さんは「戦争だけはあかん!」と、吉田栄作さんは「戦争がなかった平成という時代に想いを馳せる」と、この作品への思いを語っていた。 確かに東シナ海をめぐる紛争の可能性は日増しに高くなっているし、実際に近い将来、自衛隊は「空母いずも」を配備する予定だ。マンガが現実になってしまった。さらに政府は憲法改正を目指し、この先、日本はどこへ行くのか? 佐藤浩市の言葉だったと思うんだけど「今、映画人として作らなければいけない作品」だと言う言葉に、映画人としての矜持を感じた。 *侵略される島民の視点が全くない。企画の福井晴敏が苦肉の策でばっさり切ったのだろうが、◯◯島が占領されたというのに、政府は島民を気にかける様子もなく、最初から最後まで自衛隊の戦闘と自衛隊員の生死しか話に上らない。 島の名前を変えたからといっても、南方諸島が侵略を受ける設定に変わりはないのだが、その本来自国民であるべき島民の安否を気遣う様子が総理に全くないのは映画と言っても恐ろしい。