とらわれる魂
結局家族を無視した生き方する人生って何なんだろう。 何の為の教えなんだろう。 美しい映像の映画です。 日本はキリスト教が入る隙間がほとんどないぐらい神道と仏教の教えがしっかりと根付いていて良かったですね。コレは批判ではないですよ。
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1858年、ボローニャのユダヤ人街で、教皇から派遣された兵士たちがモルターラ家に押し入る。枢機卿の命令で、7歳になる息子エドガルドを連れ去りに来たのだ。取り乱したエドガルドの両親は、息子を取り戻すためにあらゆる手を尽くす。世論と国際的なユダヤ人社会に支えられ、モルターラ夫妻の闘いは急速に政治的な局面を迎える。しかし、教会とローマ教皇は、ますます揺らぎつつある権力を強化するために、エドガルドの返還に応じようとしなかった。
© IBC MOVIE / KAVAC FILM / AD VITAM PRODUCTION / MATCH FACTORY PRODUCTIONS (2023)
結局家族を無視した生き方する人生って何なんだろう。 何の為の教えなんだろう。 美しい映像の映画です。 日本はキリスト教が入る隙間がほとんどないぐらい神道と仏教の教えがしっかりと根付いていて良かったですね。コレは批判ではないですよ。
あってはならない理不尽な話は、どんな所にもあるんですね。。。 拉致された子供の演技が素晴らしいです!
洗礼の持つ意味について、知識のない日本人にはわかりづらいが、なんとかついていけた。同じ題材の書籍をだいぶ前に読んだが、途中で断念していたので、ある意味この映画を観ることで補完できたのは良かった。
日本国内でも最近、ムスリムが土葬を求める主張をして、議論を呼んでいます。ムスリムもクリスチャンもユダヤも絶対に譲らないので軋轢が起こる。エドガルドが6歳だからいっそう洗脳の残酷さ、親と引き離されたのも虐待に感じるけど、じゃあ何歳なら自分の意思なのか。ヒトラーユーゲントも紅衛兵もクメールルージュも子どもを洗脳した。しかし彼らの指導者は政権維持自己保守というか私利私欲が見えるが、この映画の場合、教皇はどうなのか。そもそもがアンナの、瀕死の赤ん坊がリンボーに落ちるのから救いたいという善意から始まっている。しかし、ヒトラーユーゲントたちも心から自分の正義を信じていたわけで、それは太平洋戦争中、我が国の軍国少年だってそう。 親子の宗教対立の話で思ったのは、宮沢賢治。彼は父親を粘り強く説得して改宗させたが、親子で宗教が違うことを受け入れられなかった賢治は不寛容なのか。信仰心が篤く、親を愛する気持ちが強いことは賢治の純粋さ、美徳にも思えていたんだけど。
少年にも父親にもモヤモヤ感じてしまった いい映画なんだろうけど、エンタメ性が少なすぎたかな....
カトリックが起こした犯罪モノ。 宗教はいつだって争いの種になっていて、平和を願い幸せを願い祈るものなのにいつも誰かを苦しめている。 家族の愛より神を信じる洗脳の怖さと悲劇を感じた。
あるユダヤ人の子供を誘拐して洗脳しカトリック教徒に仕立て上げる黒幕がなんとカトリックの頂点に君臨する教皇!狂っている。 テンポよく進むお話に加えてカトリックのお偉方の言い訳と子供を奪われたユダヤ教徒の苦悩と子供を奪還すべく奔走する姿、誘拐された少年が徐々にユダヤ教から離れカトリック教徒になっていく過程が丁寧に描かれていて、馴染みのない題材でも無理なく観ることができた。 命が尽きようとするユダヤ教徒の母親の元へ今はカトリック教徒の息子が駆けつけるシーンは静かながら壮絶な内容。息子の企ては未遂に終わったけど、失意のうちに亡くなったであろう母親がとても不憫。 子供を適当な理由をつけて誘拐して洗脳するのは、イスラエルがパレスチナに対してやっている。いたずら心で投石した子供を長期拘留し、学校教育を受ける機会を奪う。厳しい尋問や不当な拘留で恐怖を植え付け、イスラエルに従順になる様仕向けるなど虐待が日常的に行われている。ヨルダン川西岸地区だけで一日数人子供が捕まっている。ウクライナでもロシアが色々な方法で子供を連れ去っている。現在も子供はその柔軟性から標的になってしまい、大人にいい様に扱われる。残酷で悲しい。
年端もいかない子供が生き延びるために、強いられた環境に順応して行くことに何の罪もない、当然すぎる。問題はその年月。10年、20年でも永いが人生の大半となるとどうか。 拉致被害者のことを考える。家族に会いたいのはもちろんだが懸命に生きていればいるほど、その時間を否定し帰国なぞできるものか。その時のアイデンティティがかの国にあったとして誰に非難できるか。 そんなことはわかった上での家族の方々の奪還運動だろうけど、この理不尽を「数奇な運命」で片付けられるのは他人だけだ。
あのスティーブン・スピルバーグも映像化を試みようと資料を独占していたにも関わらず映像化は難しいと断念させたという難題をベロッキオ監督が実現させてしまったのが今作品である。 時は1858年(日本は安政5年=江戸時代)のイタリア・ボローニャ。ユダヤ人のエドガルドが7歳にも満たないときに、生まれたときに秘密裏にカトリックの洗礼を受けていたために、熱心なユダヤ教徒だった両親から引き離される形で連れ去られてしまう。 時はイタリア統一運動が盛んに行われる中でカトリックの権威でもあるバチカンの神威が次第に薄れゆく中で、意地としてでもバチカンの権力を見せつけたかったのでは?という内容。 結局モルターラ家に帰ることは許されず、洗脳されたエドガルドはカトリック司祭となり布教活動に生涯を捧げて終わりのエンドロール。 バチカンの闇は根深いとは云うが、当該作品もバチカンが権力を維持したいが為にお金を払ってまで洗礼を受けたことを理由に両親から引き離すのはあまりにも理不尽である。青年期を迎えたエドガルドが教皇ピウス9世に対して突き倒したのは今までの事に対する抵抗を示したかったのか、ピウス9世が他界して遺体を運ぶ際に反乱が起きたときでも川に突き落とせばと再び抵抗する姿勢を見せながらのカトリックという地獄から抜け出せなかった。 良い子にしていればという、あのセリフがあるのとないのとでは顛末は違っていたかもしれない。
19世紀中頃にイタリアで起きたカトリック教会による誘拐拉致事件である。 こんなことまでしていたのか…と驚かずにいられないが、昔観たアルモドバルの『バッド・エデュケーション』やトム・マッカーシー監督の『スポットライト』を思いだすと、それらと繋がり、腑に落ちる気がした。上記2作は20世紀の出来事を扱っているのだけど、カトリック教会がなぜそんなふうなのかが不可解だった。(『スポットライト』では、映画ラストの補足説明によると、性的虐待を繰り返した神父をかばった教区責任者は、あろうことかその後バチカンに栄転したと言うのだから。) この映画ではこの誘拐事件の責任者は教皇ピウス9世である。権力にあぐらをかく、醜い教皇だと言ってよいと思う。反ユダヤ主義などの社会背景、イタリア統一が進むなかでの教皇領縮小といった激動の社会情勢なども関係しているにせよ、強権を行使してきた自分たちの長い歴史から、完全に視野狭窄に陥っており、自分(たち)は世界の中心であるのだから何をしてもいい、と思い込んでいるかのよう。(エドガルドが洗礼を受けていることが誘拐の口実となっており、誰が洗礼を施したか?も問題となるのだが、その洗礼の有効無効を判断する責任者は教皇である。) 物理的に家族が引き裂かれた悲劇であると同時に、エドガルドというユダヤ教家庭の子息がキリスト教に帰依することを強制されたことで、精神的にも家族が引き裂かれた、二重の残酷な悲劇である。誘拐拉致されたエドガルドにとって、教皇の膝下で生き延びるためにはキリスト教に帰依する以外の選択肢はない。ましてや彼はまだ6歳の少年だった。簡単に洗脳されるだろう。危篤の母親の元に駆けつけ、(あろうことか!)ユダヤ教徒の母親に洗礼を施そうとするエドガルド。同意なく洗礼を施された彼自身とは対照的に、母親はきっぱりと断わる。決定的に息子を失ったことを、このとき母親は思い知っただろう。 エドガルドは誘拐拉致されて、磔刑のキリストの像と出会い、それに心惹かれる。十字架に磔にされ、うなだれ、血を流しているキリスト。彼はその姿に、キリスト教(会)というものに磔にされた自分を重ね合わせたように思われる(少なくとも映画で観る限り)。 10数年後に市民軍の一員として迎えに来た兄に言った「自分で選んだ」という言葉は、それもまた洗脳の結果にすぎないかもしれないものの、多少でも真実があるとするなら、そういうこと(磔になったキリストへの帰依)なのだろうと察せられる。 しかしそうだとしても、あるいはそうであればこそ、彼の心の奥底には、暴力的に家族から引き離されたことへの怒りと悲しみが封じられており、歳月がたっても時として抑えようもなくそれが噴出する。青年になって、教皇を突然押し倒したり、教皇の遺体の移送の際に「テヴェレ川へ投げ捨てろ!」の市民の怒号に突如同調したり…。 偽善(飴)と懲罰(鞭)によって強いられた従順は、自発的な帰依とはやはり異なるのだ。 その後1904年まで宣教を続け、ベルギーに定住し90歳まで生きたというエドガルド・モルターラ。その孤独と葛藤はキリスト教の神によって救われたのだろうか…。 エンドロールで流れるテーマ音楽も映画の内容にマッチしていて、素晴らしい!