振れ幅の大きい 詩的なファンタジー
振れ幅のとても大きい 詩的なファンタジーでした 単に産後うつやセックスレス/浮気のことじゃなく人間関係や社会でなんとかやっていくこと 森 田舎町 古い家 黒い馬/唇の傷/黒いバイク Crossroads Love Me Tender Love Will Tear Us Apart
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グレース(ジェニファー・ローレンス)は、夫ジャクソン(ロバート・パティンソン)と田舎町に移り、静かな新居での暮らしを始める。穏やかな風景に包まれたその場所は、彼女に安らぎをもたらすはずだった。しかし、出産をきっかけに執筆は滞り、重圧と深い孤独、そして断片的に訪れる幻覚が、日常を少しずつ歪めていく。やがて現実と幻想の境界は揺らぎ、彼女の心は音もなく崩れ落ちる。崩壊の果てにあるのは、愛か――それとも、狂気か。
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不快な音が耳に残る。 赤ちゃんのギャン泣き。 犬のギャン泣き。 クラクション。 ハエの羽音。 ガムをクチャクチャ噛む音。 絶えず鳴っているその音が、流すことはできるのだが、静かに溜まる。何か心の中にもやもやしたものが運んでくる。そう、不快が静かに溜まっていく。 それはグレースが狂気を帯びていく様を追体験させられているようだ。そういうことなんだろう。 (よくよく考えると不快な音たちはそれぞれに意味があって不快なんだなあとふと思った。赤ちゃんは非常事態のサイン、犬は敵を撃退するため、クラクションは注意を引きつけるため。もしもそれらがいつまでも聞いていられるような気持ちのいい音だったならばそのまま聞いてしまってそれらの目的は達成されない。すぐに止めないといけないほどの緊急事態を示しているのだ。なるほどなあ) 産後うつ。 男性には経験がしようがないけど、もしも経験することがなったとしたらそれはそこまで真剣に子供と向き合っていることの証明になるのだろうか。まあでもないだろうなあ。 この「ない」と思うこと自体が子育てに対してのアナログな考え方なんだろう。もう主夫というのもあるのに。男性社会、女性社会に囚われた考え方はなか中の根深いものがある。 出産のメカニズムは男性も知る必要があると思う。そういえば昔、学校で保健体育の授業は男女別々に受けていたなあ。これも差別にあたるのだろうか。お互いの体の仕組みはやはり知っておいた方がよいだろう。いや、待てよ。そもそも男女の二つだけに分けているのがよくないのか。男女以外のジェンダーもある。 油断すると、時代をアップデートできてない自分に気付かされます。アンテナをはっていなければ。年齢は言い訳にならない。知らないうちに誰がを傷つけることになりかねないと 映画は現実と虚構が入り混じって進む。 もうどっちがどっちかわからない。 あえてつなぎめをあげるとすれば、車椅子の娘を持つ黒人男性が、家の周りをバイクでウロウロしてた黒人男性にトレースしているように見えたり、真っ黒なデカい馬をよそ見運転でひいてしまうのは無理があるような気がする。 どっちがどっちかわからないのは、わざとどっちがどっちかわからないようにしているからだろう。そのままである。 意図的に悪夢の追体験をさせられている。 これは「夢見心地」ならぬ「悪夢心地」である。 (そんな地獄でもなぜか心地よさを感じる私は変態でしょうか笑。悪夢心地よい) しかしそんな悪夢心地にも救いはある。 それは「キャリー」でどん底を味わったシシースペイシクが助けの手を差し伸べることである。全て包括し人生を達観しているような彼女の理解はこれ以上ない救いです。 (これは映画の趣旨とは違ってしまうかもしれませんね)
予告編の危なっかしい印象のためか、終始、どうなるのかと思いながら鑑賞。 ふっと気がゆるんだとこれにハプニングが起こる。夫が帰宅後に掃除しているとの会話だけではなく、そのシーンもあれば、グレースの病んでいる状況がもっとよく実感できた思う。
DIE MY LOVE ダイマイラブ、ロバート パティントンのファンなので鑑賞。不幸な男を演じることの多い彼だが、今回は極めた感じです。ジェニファー ローレンスも体当たり演技なのはわかるのですが、理由も気持ちも共感しにくく、そこがベイビーブルーの辛さなのよ、ということなのだろうが、ちょっと狂気が過ぎる。モノノケでも憑いてるならホラーだが、生い立ちのせいと言いたげなところが悲しい。彼女の美しさより嫌悪感が勝るようなら体当たり演技が勿体ないかも。 犬好きな方には辛いシーンあるので注意です。
製作者が表現したかったことは何だろう。不幸な育ちの女が結婚や育児という普通の生活ができず精神を病む。それが言いたかったのだろうか?社会に訴えたいものでもあるのだろうか? それとも、音楽初めかなり工夫して不愉快さを掻き立てる過激なシーンの連続で、この女の病理を見せたかったのだろうか?例によって、深読み気取りのカンヌの観衆が拍手喝采したのはその証拠か? アメリカのお家芸たる映画芸術の行くつく先がこれだとしたら悲しい。