同じ人間
私も同じ人間だから、全身震え何度も息が止まった。人間ってこんなに凄いんだと格差のリスペクトと同時に、生きる勇気さえもらった。何故か見終わった後、怖いものがなくなっていた。
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『グランドピアノ 狙われた黒鍵』などの脚本を手がけたデイミアン・チャゼル監督の長編2作目にして、2014年サンダンス映画祭のグランプリ&観客賞受賞を皮切りに世界各国の映画祭で旋風を巻き起こしたオリジナル音楽ドラマ。名門音楽大学に入学したニーマン(マイルズ・テラー)はフレッチャー(J・K・シモンズ)のバンドにスカウトされる。ここで成功すれば偉大な音楽家になるという野心は叶ったも同然。だが、待ち受けていたのは、天才を生み出すことに取りつかれたフレッチャーの常人には理解できない〈完璧〉を求める狂気のレッスンだった。浴びせられる罵声、仕掛けられる罠......。ニーマンの精神はじりじりと追い詰められていく。恋人、家族、人生さえも投げ打ち、フレッチャーが目指す極みへと這い上がろうともがくニーマン。果たして、フレッチャーはニーマンを栄光へと導くのか、それともたたきつぶすのか?ラストステージ― 二人が見せる衝撃の〈セッション〉の結末は?
私も同じ人間だから、全身震え何度も息が止まった。人間ってこんなに凄いんだと格差のリスペクトと同時に、生きる勇気さえもらった。何故か見終わった後、怖いものがなくなっていた。
最後のセッションは本当に鳥肌が立ち、しばらく動けませんでした。しかし、教える方も習う方も命懸けだね。ドラムに対する概念が覆りました。今度ブルーノートに行ったらドラムばかり見ているかもしれないね。
才能と才能、人格破綻者同士の音楽での殴り合い。 でもそこに、ニーマンの父親の愛情が差し込まれているのを感じた。 大学退学になって、彼女もいなくなって、フレッチャーにも「終わりだ」って言われて、全てを失ったかのように感じてるニーマンだが、父親だけは寄り添ってる姿が描かれている。 最初の方の食卓のシーンで無理解な態度が示されてるからあまり味方って思わせないように慎重なバランスで描かれているとは思うが…… ラストのJVCでのフレッチャーとの対決も、父親という受け皿があってこそ。芸術にのめり込むには極限まで削るが、でも命綱はちゃんと着けとけよ、という、監督からのメッセージなんじゃないかと思った。 それゆえ、、度々一緒に映画見るシーンがインサートされている。 父親とのパートは丸削りしてもいい構成なのに、敢えて挿入しているのは、そういう意味なのではないだろうか?
どういうつもりかね 先生は
イチロー曰く、 「今の若い人はかわいそうだ。徹底的に追い詰めることは外部からできない時代になった。自分で追い詰めるしかない」 (というニュアンスのことを言ってた。一言一句同じではない) この映画の世界と繋がっている。 上を目指すためには、おそらくそれは一理あるのだと思う。 しかし今の時代も間違ってないとも思う。 追い詰められうつ病になったり死を選んだりする人が出てくることは違うと思う。 全てをひっくるめて、「今」に相応しい違う方法を模索し続けるしかない。例え見つからないとしても探し続けること、それが答えだ。 観るのは苦しいけど人生に必要な映画である。 (とはいえ堅苦しいだけではなく、エンタメとしてのカタルシスもある。それが映画の醍醐味なのです)
2025年4月に初めて劇場鑑賞。 観た人の数が飛び抜けていたので、ブラスとかジャズはよくわからないけれど、観ないといけない気がしてきて劇場へ...。 フレッチャーの追い込み方が狂気を帯びていて、観ていて重苦しかったです。 自動車事故のシーンは衝撃的で、そのインパクトの方が昇華された結末より印象に残りました。
10年前にこの映画があった事を知りませんでした。 ライブ会場にでもいる感覚でした。音楽映画でこの緊迫感と迫力は凄いと思います。 ただ邦題がイマイチです、英語のままの方がピッタリだと思いました。
音楽学校の先生がサイコパスでサディスト。 昭和の昔は、こういう部活顧問がよくいたと思わせる人で、鬼気迫るアカデミー賞助演男優賞の演技。 生徒たちは罵り倒されます。 実際に存在しそうと思わせる演技でした。 何故か蒲田行進曲を思い出しました。 しかもこのハラスメントが効果をあげるような あるいはハラスメントでしか他人と交流できない ストーリー展開で、この映画をさらにスリリングにしています。
「目玉をくり抜いてやる」 音楽院を舞台にしたスパルタ教師とドラマー志望の学生による音の戦争。ミュージカルを製作したかったデイミアン・チャゼルが資金集めとアピールのために製作したのが本作にあたる(ご存知の通り、その後チャゼル監督のミュージカル構想はは「ラ・ラ・ランド」として結実する)。 やるじゃねえかチャゼル、というかどうした?こんなに素晴らしい作品を製作したのにその後は一体何だ?「ラ・ラ・ランド」はまあまあ面白かったが「バビロン」はまるで離乳食だ。 魂を揺さぶられた。また私事になるが、僕は奇しくもアンドリュー(演:マイルズ・テラー)とフレッチャー(演:J.K.シモンズ)両方の立場を自分の中で経験した。そしておこがましいことを言えばチャーリー・パーカーも。 僕は10歳の頃同級生からいじめにあった。中学は受験したので中高一貫校に進んだが、小学校時代の同級生を見返したい一心で(「自分はあいつらとは違う」という差別意識もあった)勉強も部活も取り組むようになった。ここまでは聞こえが良いが段々と方向がおかしくなり、気付けば「叩く側」と「叩かれる側」の二面が自分の中に。謂わば「セルフパワハラ」である。「猿でも解ける問題で何故満点が取れないのか?お前の存在は人類第8の大罪だ」といったことを並べたて、ピーク時には真冬に窓全開でシャツ一枚で勉強、試験の成績が思わしくないとズボンのベルトで自分のことを殴りつけるといった始末だった。しかしそうこうしているうちに今度はメンタルがおかしくなり、17歳の頃学校内の試験で失敗したことで完全にグレた。ライブ中にシンバルを投げつけられたチャーリー・パーカーのように、周囲から笑われて完全にやる気をなくした。「お前は無能だ」と吐き棄てて自分を見限ったのである。残念ながら現在でも自己嫌悪の感情はある。 気持ち、僕はフレッチャー寄りだ。僕からすれば「努力」「立派」というワードは人を破滅させる危険なワードだ。英語で言うと"Good Job"といったニュアンスだろうか。だが同時に「一線というものがあるでしょう」とも思う。17歳の自分は、やってもやっても認められない虚しさにやってられなくなって全てを投げた。数年前、電車が遅延した際に「社内会議に遅れる」という理由で勝手に線路を歩き出した会社員が社会問題となった。やはり行き過ぎるとこういうことが起こるし、ここまでくると容認も看過もできない。 でもね、「努力」は結局偽物でしかなく、本物にはなり得ないと個人的には感じる。ここまで来るともう価値観の問題で、要は「天然だろうが養殖だろうがウナギは美味しい」と考えるか、「いや、やっぱりウナギは天然に限る」と考えるかの問題である。別に世の中妥協しても死にやしない、というか、チャーリー・パーカー自体が結局ドラッグに溺れて寿命を縮めたことを考えると、陽キャとして生きたければそこそこのラインで妥協することが必須だ。だから皆「努力が大事」などと不揃いな薄っぺらいことを言う。僕は陽キャにはなれない、故に「努力」とは生涯相容れない。となれば「イカれる」しかなさそうだ。伝えるべきは、狂気。
心が折れかけてた時にみたため、教授に屈しない主人公の攻めの姿勢は感動して涙がでた。最後の演奏は圧巻。
「狂ったメンバーを紹介するぜ!」を外野から見ているのは楽しいが、絶対メンバーにはなりたくないし、現実ではそれが「良きこと」として扱われることはあってほしくない。しかし狂った喧嘩ほど面白いものだ。 《余談》 主演のマイルズ・テラーはトップガン・マーヴェリックのルースターだと顔や声ではなく特徴的なタレ目と左顎の線で分かったけど、8年でガタイ良くなり過ぎでしょかっこよくなり過ぎでしょ。
時間 空間 視覚 聴覚 感覚 メンタル なんかそういうのみんな持っていかれた。
ジャズ鬼教師フレッチャーと若者ニーマン ニーマンくそかっこええ フレッチャー鬼すぎる やりすぎた指導の先に ラストシーンの2人好き 2人ともムキになってるというか憎しみながらジャズやってたけど、ニーマンの音楽を愛し、自由に演奏してるのがかっけぇ、次第にフレッチャーもノリノリになって
いつまでも親離れ出来ず、人見知りで相手の目を見て話す事も出来ない名門音楽大学の生徒ニーマンは、人格障害のある鬼教師フレッチャーに出会い、魂を呼び覚まされて行く。フレッチャーの求めるテンポに必死に合わせ、フレッチャーに認められる事で自信をつけたニーマンはやがて傲慢になっていくが、大きな挫折で全てを失った事で、本来の自分を取り戻し、愛の大切さに気づき、そして自立していく。ラスト15分、父親との抱擁から毅然とステージに戻り、自らバンドのリードを取る圧巻の演奏シーン。そして最後のフレッチャーとのアイコンタクト。全てを乗り越えてニーマンは男になっていく。男だったら泣こう。
この監督はJAZZをどこまでも知らないのだろうか?なにか賞やら最近の人間の評価て映画や音楽に対して全く無知でしかない。こんな映画テレンスマリックの映画以上に存在してもいいものだろうか?病んでる皆さん病んでるアメリカとしかわたくしには思えません。全くの不愉快、これも映画ならば世の中に映画というものは無くなってしまってもいいだろう!